~ Je te vuex ~




日向はアパートの部屋から出ると、玄関の扉をそっと閉めて、外から鍵を掛けた。ノブを幾度か回してちゃんと掛かっていることを確認すると、鍵を郵便受けの中に落とす。
こうしておけば岬が目を覚ました後に、鍵を回収することになっている。日向が出掛けに覗いたときには、岬は布団の中におとなしく包まって、まだ眠りの中にあった。

朝の5時では、外はまだ暗かった。日向は白い息を吐きながら、駅に向かうためにアパートの外階段を下りる。金属製の階段は足音がカンカンと響きやすいので、近所迷惑にならないように、意識してゆっくりと足を運んだ。

「さむ・・・」

明け方の空気はキンと冷え切って、露出している顔の皮膚がピリピリする。日向はコートの上から巻いているマフラーをもう一度きつく巻き直して、はあ、と息を吐いた。もう少し温かい布団の中で岬と一緒に寝ていたかったとも思うが、始発で出ても部活の開始までにギリギリになってしまうので、仕方のないことだった。

自分の朝食は駅前のコンビニで何か買って、新幹線の中で食べるつもりだった。だが日向は岬の分だけは食事を用意して、テーブルの上にメモと共に置いてきた。岬が目を覚ます頃に炊き上がりをセットしたご飯と、鍋を温めればいいだけの味噌汁。玉子焼きと焼き鮭もラップをかけてきたので、電子レンジに放り込んでボタンを押せばいいだけだ。あとは野菜代わりに切ったオレンジ。
一人の時は家で朝食を取らない、と言う岬も、ここまで日向が用意すれば食べてくれることは立証済みだった。 メモには「また来る」とだけ、短いメッセージを残した。あれこれ書いた方がいいのかとも思ったが、考えても「また来る」以外には思いつかなかったので、それで終わりにした。

          あいつ、起きたら喜ぶかな。

目を覚ました岬がテーブルの上の皿を見て、可愛らしい顔に柔らかな笑みを浮かべる。そんな様を想像すると、日向の心もほっこりと温かくなる。まるで本当の嫁みたいなことをしているな・・・と多少自分でも呆れるが、岬のために家事をするのは今に始まったことではなかった。
岬の家にいって、それまであまり経験のなかった掃除やら洗濯をするようになったのは、それこそ小学生の時だ。面倒だとも、大変だとも感じたことは無かった。逆にそれらのスキルは後の日向に必要不可欠なものとなったので、鍛えておいて良かったと思ったくらいだ。

岬は日向のことを 『嫁』 と呼ぶ。
きっかけが何だったのか、日向にはもう思い出せない。だが多分、岬のために家事をやるようになったその頃から、そう呼ばれるようになったのだろう。
岬がそのことで自分に甘えて 『嫁』 と呼んでくるのは、今となっては別に構わないと日向は思っている。


ただ、どうしても解せないことが一つだけ。


          ・・・なんで、・・・よ、夜まで、俺が嫁・・・!?


正に初めての夜、日向が心の中であげた叫びはこの一言に尽きた。
たった一つのこの疑問は、いまだに解明されていない。

別に今更、何が何でも岬に抱かれるのが嫌だという訳でもないし、どうか役割分担を変わってくれ・・・という訳でもないが、普通に考えたら逆なんじゃないかと日向ですら思う。
身長も体重も自分の方があるし、筋肉量だってどう見たって岬よりはある。
それに何といっても岬は可愛らしい。透けるような白い肌に、指ざわりのいいサラサラとした茶色い髪。少年ぽいあどけなさの残る岬が上目遣いに甘えてくると、見慣れた筈の日向でさえドキドキする。
砂糖菓子のように甘ったるい外見をしているくせに、気まぐれな猫みたいな性格をした岬。
実のところ、日向はそんな岬が可愛くて仕方が無かった。照れ屋なので表に現れるのは三割減くらいの愛情であったが、それこそ文字通り、岬を猫可愛がりしたいくらいなのだ。

なのに、こうしてたまの逢瀬に抱かれるのは日向であり、抱くのは岬であるという事実。
今でも日向は不思議に思う。どうして可愛気の欠片もない自分のことを、岬は抱けるのだろうか        と。


昨夜も日向は訳が分からなくなるまで岬に愛された。なかなか会えない二人だから、抱き合うのも久しぶりだった。その分、行為に熱心過ぎるほど没頭してしまったのは仕方の無いことだろう。

それでも、昨日のは         と、ゆうべの嬌態を思い出してしまい、日向は顔を赤くしてマフラーの中にますます深く顔を埋めてしまう。

昨日の岬は、ちょっとだけ、しつこかったと思う。

日向の許容値を優に過ぎた感覚に、最後の方はついていけなくなりそうだった。目の前にある自分よりも細い肩に必死でしがみついて、『もういやだ、やめてくれ』 と懇願すると、『だーめ』 と可愛らしい口調で却下された。自分の意志とは関係なく涙が零れると、それすらも優しく吸われた。

愛している、と言われたから、自分も好きだ、と返した。普段はなかなか口にできない言葉なのに、何度も何度もうわ言のように繰り返した。

          あいつが、すげえ幸せそうな顔をするから。

好きだと告げる度に岬が至福の笑みを浮かべるから、だから日向も恥ずかしかったけれど、嬉しくもあったのだ。こんなことで岬が喜んでくれるなら、何度だって言ってやる         そう思った。
それくらいにはお前のことが好きなのだと、人を寄せ付けないくせに寂しがり屋の可愛い男に、教えてやりたいと思う。

「・・・やば。もう、俺、末期かも」

自分を 『嫁』 と呼んでくる男のことを思うと、胸の鼓動がトクトクと鳴り響く。
日向は頬に熱を上らせたまま伏目がちに俯いて、微かな吐息を漏らす。それが傍からみればとんでもなく艶かしいなんてことは、日向本人は気がついていなかった。







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